2016年9月19日月曜日

最高の栄誉と誇り


東京デンタルスクール 代表の岡田です。


今回は


最高の栄誉と誇りについて


です。



生きていれば様々な恥辱を味わうこともあれば
予告もなく、最高の栄誉が舞い降りてくるということがあります。


私にとって、、
栄誉・誇りは決しておごり高ぶるような軽いものではなく、
自分ではなく、自分以外のものに向けられた時に
得られるものだと思っています。



私は小学校、中学校、高校生と学業や交友関係
で良い思い出はあまりなく、例えば学生時代の青春のような
一般的な学生のデートもしたこともなく、
昔から弱いながらも、理不尽に抵抗する熱血漢という性格もあり、
いわゆるいじめの対象で活躍という言葉に最も遠い立ち位置でした。



例えば行事ではいつも見えない場所で1人、
角にいては、投げかけられる言葉・評価は


「弱そう」
「声が小さい」
「情けない」


という人生です。



高校生はこのような性格で
運動部に入るわけもなく、当時は運動部以外の
大人しいイメージから入会した釣り同好会でした。



中学生、高校生の頃は毎日長時間ゲームをし、
いわゆる冒険のロールプレイングゲームやアニメで、
現実の自分と異なり、主人公や活躍する人物に憧れを抱き、
感情移入をしていました。



実際、ファイナルファンタジー10というゲームの頃までには
ゲームの発売日の数日前に手に入れ、発売日には全てクリアしていました。



中学生の頃、このような状況の中、勉強も出来る方ではなく、
いわゆる大人しい性格で、周囲からはイメージで勉強が出来そうといわれながら
実際には全て負けているという人生の苦難の時期でした。



そのような時に知り合ったのが中学校の担任の先生でした。



先生は私に唐突に


「学級委員長に立候補しなさい」


と話されたことを今でも鮮明に覚えています。


全く私の性格の、真逆のことに戸惑ったことを覚えています。
しかし、当時何を思ったのか反射的に立候補しました。


結果は私に入ったのは記憶が正しければ3~4票
ほどで今でいえば笑い話になる状況です。


しかし、この時不思議な感覚を体験しました。



私の中で、


成功できなくてもある種の充実感


が芽生える瞬間の感情を得ました。



成績は振るわなかった私ですが、唐突に
日本大学第一高等学校への学校長からの特別推薦を頂きました。



今思っても理由が分からず、最も不思議です。




高校に入学し、対人恐怖症から選んだ同窓会が釣り同好会でした。



釣り同好会では様々な似たような性格のメンバーとともに
高校の周辺の釣り堀や、夏などには宿泊の合宿など初めて
チームで楽しむという感情を知りました。



高校の同窓会の先生にはたいへんお世話になり、今でも年賀状
などご挨拶の縁を頂いております。



私は日本大学第一高等学校では、
しっかり勉強するという意気込みはありましたが、
まさに空転する努力という結果でした。



大学進学に陰りがあった頃、当時の担任の先生より


日本大学松戸歯学部への学校長の特別推薦



を頂けるというお話を頂きました。
この時、非常に学業、心理相談などたいへん
お世話になった先生が現在の校長先生を
務められている 学校長 熊谷一弘 先生です。



当時、歯学部はたいへんな人気で、同時に
出願した人たちは私より成績が高く、入学は困難と伝えられていました。


当時、私は松戸歯学部は解剖組織学教室で、
恐竜の化石の研究をされていたり、医学的歯学という
全身を診ることのできる歯科医師ということに感動していました。


まわりから見れば驚くほど
松戸歯学部へ向ける私の眼差しはきらきらしていたと思います。



私は入学の面接の時には、
運命をかけて大学への入学の想いを伝えました。



結果は合格。




松戸歯学部への入学が決まりました。
私は中学校の先生、高校の先生に直接挨拶の足を運びました。


ここから私の人生が
大きく変わることに当時はまだ気づいていませんでした。


私は学力試験ではなく、
二度の学校長による特別推薦にて大学に入学したので




「今度こそ。今度こそ人生を変える」



と熱い思いがありました。



大人しい暗い今までの自分でなく、
明るい自分になりたいと切に願っていました。


大学では当時低学年からの研究室の配属があり、
私は組織学教室で様々な先生からレクチャーを頂きながら
日本解剖学会にて学生発表をさせていただくことが出来ました。



当時、汗だくで歩きながら誰がみても分かるほど
声が震え、汗が止まらなかった様子は医局の先生方
にとどまらず、今でも様々な場所で有名で、話題を頂くことがあります。


本当にその時は数人の人の周りの前で話すことも
まったく思考回路が回らなくなるほど緊張してしまう性格でした。


部活動は文化系に入ろうと当初考えていましたが、
当時の松戸歯学部は歯学部の中でも抜群の体育会系でした。


声が小さく、腕立ても1回も出来ない
状態で1年生の頃には先輩方より非常に厳しいご指導も頂きました。


大学では様々なことに挑戦して
人生を最大限謳歌したいと日々思っていました。



部活動だけでなく、文化祭実行委員。


様々な場所・活動への参加


学習塾でのアルバイト、


交友関係


など当時考えうるすべてを挑戦し、青春を謳歌し、やり遂げました。



人生は大きく歯車が回りだしたように好転しました。



今思えば、中学生は部員全員に相手にされず、
幽霊部員でありながら球拾い。


入学時の体育で1回も出来ない腕立ては、
卒業時には100回出来るように体も心も自然に鍛えられていました。


そして、卒業時、私の名前が呼ばれました。



当時思ってもいなかった


日本大学松戸歯学部 学部長賞



を賜りました。大学卒業後。

様々な要因から歯科医師の臨床医
という道ではなく、一般企業の会社員という営業職を経験しました。




待ち受けていたのは大学とは異なり、
一般社会の厳しい現実でした。



私は卒業し、一般の社会人で営業の仕事を行いながら、
常に歯学の勉強も卒業後もほぼ欠かさず継続していました。



そして、社会人経験を経て、私の人生を形作っている
人生そのものが「歯科」とのめぐり合わせということを感じました。


私の人生は「歯科」そのものです。




もし、日本大学松戸歯学部以外の歯科大学に
入学していたら今の私がいるかどうか分かりません。


様々な先生や環境、交友関係、部活動に恵まれました。




開業して数年間ほぼ休まず、毎日歯科のことだけを考えていました。



関東全ての歯学部の生徒様の授業を担当し、
全国から口コミで生徒様にお越しいただくようになりました。



そして、日本大学松戸歯学部に少しでも
恩を返したいと思うようになりました。



そして、前回、松戸歯学部での講義の機会を頂くことになる縁を賜り、
昨日、9月17日には2回目の講義をさせて頂きました。



私にとって暗黒の人生を変えるきっかけとなった
松戸歯学部というステージで、
講義を取ることが人生最高の栄誉であり誇りです。


数人の前での発表でも数日前から足が震え、
汗が止まらず、声も小さかった私が、



今では学生さん方の前でしっかりと
情熱を持って授業を行うことが出来ています。




中学生や高校生の自分からは
とても想像が出来ない自分がステージ上にいます。





















これから少しでも多くのこと。
大学で学んだ知識や情熱を伝えて
いきたいと思います。


初心を忘れず引き続き
私の人生に挑戦し、全力で取り組んで参ります。




































東京デンタルスクール
岡田優一郎
日本大学松戸歯学部卒業 学部長賞